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人魚廼舎 詞藻苑  NINGYO NO YA ―shisou en―

Home > ブログ > 淋しい閲歴 ―旧ブログより―

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回春

本年は春気が早く廻ってきたようだ。庭が早くも賑わいを見せている。

以下、前ブログの引用。去年4月6日の記事である。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

◇回春(かいしゅん)
①春が再びめぐってくること。
②若返ること。「-の妙薬」
③病気が治ること。快復。


却々(なかなか)の間、筆無沙汰を続けてしまった。

選外の報を受けてから後、一月(いちげつ)許(ばか)りも銷沈したままで過ごしていた。

いつか解らない内に、4月になっていた。
日付の感覚がない。
例年よりも薄鈍(うすのろ)い春気もこれを後押ししているようだ。



梅の頃の話となる。
父が手折(たお)り渡して呉れたものを、小瓶に挿して傍らに置いていた。

白い花弁の中に、子筆で颯(さっ)と薄紅を引いたようなのが交ざっているのが好い。
未だ含(ふふ)んでいる蕾の様子も実に可愛らしいものだった。

また、盛りも過ぎて、不意に手が触れたばかりに、はらはらと散らして終ったときの、果敢無さ、呆気なさ。

花兄と云われるだけある。
梅は好いものだ。



今もって、巧く言葉が浮かばず紡げない日々が続いている。
更新しても、閑文字(かんもじ)を連ねた記事になってしまうだろう。
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偶合

◇偶合(ぐうごう)
偶然に一致すること。
「夢の夢なる一本百合のこの此の在る事、畢竟(ひっきょう)-に過ぎずとは謂え」〈紅葉・金色夜叉〉


なにとなく不図(ふと)、自分等二子の名の他の候補を知りたくなって、母に問うてみたところ、「あすか」と「せりか」だったと云う。


以前妹と、若し自分に子供が出来たら何と名付けるか、という話をしたことがある。
これに、僕は「やすか」、妹は「せり」と答えた。

奇(く)しくも自らの名だったかも知れないものに似た名を僕等が考えていた事が面白かった。



出典
人魚詩舎 コトバnoiseミ
『偶合』 http://mblg.tv/u39nss/entry/104/?cur=archive&val=all

半過去

従前ならものを見れば口を衝いて出た言葉が、出ない。
感取した儘、澱(おり)の様に溜まっているようだ。

不全ながら、心覚えに記して置く事にする。


5月の未だ柔かく、日を透かして精彩滴る新緑。
その一葉一葉を風が細やかに動かし、葉面に反照した光がちらちらと揺れるのが、“風光る”の感である。

それが次第に青味を増し繁茂して往くと、庭に吹く風も変わって鮮烈に感じる。
初夏の輝きを感じるのはこの頃である。


扨(さて)6月。
庭を見れば、晴れていれば昆虫や鱗翅の類が常に動いている。
それを索然と眺めるのが日課である。

此節の不規則な気候は、僕を不安定にさせるに充分である。
勿論、この月への特別の心情が柵(しがら)んでいる事は言(げん)を俟(ま)たないが。



前梅雨の寒さにそぐわず車百合 / 棹



人魚詩舎 コトバnoiseミ
『半過去』 http://mblg.tv/u39nss/entry/127/?cur=archive&val=all

7月5日

鬼胎(きたい)より


失業してから一年も経ち、病状も落ち着いてきたというのに、僕が一向に懶(ものぐさ)をしているものだから、父は箸が転んでも面白くないようだ。
当然の報いであることは承伏(しょうふく)しているのであるが、気が揉める日々である。


然れども、こちらにだって言い分が無い訳ではない。

成程(なるほど)、昨年の様な狂人の言動は鳴りを潜(ひそ)めた。
但(ただ)し、“気が触れる前”に戻ったのであって、健常人になったのではない。

他人に隠し自分を騙し、傍目(はため)には愚鈍で散漫な奴に見えるだろうが、常に緊張を孕みながらの生活を送ってきた頃に返っただけである。


再び独りで藻掻(もが)く日々。
今の憂患は屹度(きっと)、嘗(かっ)てより強い。

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